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写真加工:トーンカーブ

今日はこれから、ライヴを見に行くので、また少しカメラのことを考えてみたいと思います。

デジタル写真の後加工のソフトウェアには、「トーンカーブ」という機能があります。実は最近、ライブハウスでの撮影の条件、ライティングが逆光、あとは暗いという場合、これがなかなか効果的なことに気がつきました。

音の加工にもダイナミックをトーンカーブで補正するのがありますが、考え方はまったくいっしょです。

ユーザーインターフェースも下記のような感じで、音の場合と似ています。
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こうすると写真が明るくなります。
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こうすると写真が暗くなります。
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以前、写真はISO感度、F値(絞り)、シャッター・スピードの3つでコントロールすると書きました。フィルム・カメラの場合は、フィルムの特性は物理的に決まっていますので、カメラ側ではいじりようがありませんが、デジタル・カメラの場合は実はこのトーンカーブが加わっているのではないかと思っています。

というのは、いま使っているSamsungのカメラで暗い場所でシャッター・スピード優先でブラケット機能を使って試し撮りしたことがあります。ブラケット機能というのは、露出補正を「0」と「+1」と「-1」の3つに設定を仕分けて連射するという、適正露出を得るための機能です。

撮った写真のデータを見ると、露出補正が「0」のとき既にF値が解放、つまり絞りが最大に開いて、いちばん明るく撮れる設定になっていました。

シャッター・スピード優先なのでシャッター・スピードは固定され、ISOも固定ですから、これでは「+1」でもこれ以上明るくは撮れないはずです。ところが、写真はちゃんと3枚で明るさが変わっていました。

ということは、ISO感度、F値(絞り)、シャッター・スピードの3つでコントロールしきれなくなった場合、カメラはトーンカーブをいじっているのではないかと思った訳です。

萩原朔太郎の『月に吠える』『青猫』

前回は小説の文章について書いたので、詩についても書いておきたいと思います。

詩を「分からない」って言うひとがいますよね。まあ、クラシックが分からない、ジャズが分からない、美術が分からないとか、よく言われます。

でも不思議なことに、ロックが分からないっていうのは、あまり聞いたことがありません。

わたしも詩は最初分からなかったんで、「分からない」っていう意味は、よく分かります。わたしの場合、萩原朔太郎の『月に吠える』『青猫』を読んで、初めて詩が分かると思ったんですね。

『萩原朔太郎詩集』 (新潮文庫)
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クラシックは、マーラーを聴いて初めて本当に分かったと思いました。ジャズはマル・ウォルドロンを聴いて、初めて分かった気がしました。

出会いが必要なのかもしれません。

萩原朔太郎は、独特の古風なぼんやりした哀愁に強く惹かれました。蒼古とした情緒と言ったらいいでしょうか。それが強烈なイメージで目の前に迫って来ます。言葉のイメージを喚起する力に驚きました。

ぼんやりした哀愁というのは、『月に吠える』だと「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」、『青猫』だと「時計」とかのことです。

しかし、日本語の詩は言葉自体が既に独特のリズムを持っています。

音楽にはなりにくいなぁと思ってしまうんですよね。日本語の歌は、詩とは別の日本語を必要とする気がしています。

小説の文章

三島由紀夫の文章は非常に密度の高い文章です。

最初のたった1ページの描写で、物語の背景となる場所の風景がまざまざと目に浮かんできます。

その後、小説に必要とされなくなったのか、風景描写そのものが次第に衰退していきます。その兆候は、三島と同世代の安部公房や少し後の世代の大江健三郎あたりから、感じられます。

大江健三郎 『万延元年のフットボール』 (講談社文芸文庫)
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安部公房 『箱男』 (新潮文庫)
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物語の舞台がリアルに目に浮かばなくなり、空気感が薄く、そのため、ある意味息苦しさを感じるようになりました。抽象性が強くなったような気がします。

ロックにおいて、パンク・ロック以降ロックは、幾分かにせよポスト・パンクの性格を帯びるようになったことと似ているかもしれません。

いまの口語体の文章は、明治以降に作られたものです。明治20年頃に二葉亭四迷による言文一致運動があって、森鴎外は文語体と口語体の両方で小説を書き、夏目漱石によって口語体の日本語は、ほぼ完成に近づきました。

まるで、日本語のロックを作るのに、はっぴいえんどを始めとする先人達の努力があったのと似ています。

その口語体の文章は、戦後まで発展を続けて、川端康成、三島由紀夫あたりで頂点を極め、安部公房、大江健三郎によって方向転換を果たすのかもしれません。

いまの小説はその延長にあります。そのせいか、村上春樹とか、どうも最近の小説はうすくちに感じてしまいます。

三島由紀夫の『豊饒の海』

昔は、ほんとうに真剣に音楽を聴きましたが、本もよく読みました。

わたしが高校生の頃には、本を読むか、レコードを聴くしかありませんでした。

コンピューター・ゲームもなかったし、携帯はもちろんインターネットもなかったし、ビデオもなければパソコンもなかった。で、本と音楽には集中しました。

もちろんテレビとラジオはありましたよ。FM放送が、実験放送から本放送に変わった頃です。ラジオを聴いて、いい音楽をみつけて、レコードを買って、という生活でした。

そんな中で最も衝撃的だった事件がありました。三島由紀夫の割腹自殺です。昭和45年(1970年)の11月25日、高校2年のときでした。化学の先生が教室へ入ってきて開口一番、「三島由紀夫が自衛隊に乱入して腹を切って自殺した」と言いました。

時代はまだ建前にせよ、世の中に本当に偉いひとがいると信じられていたころで、作家のステータスはいまとは比べものにならないほど高かった時代です。特に三島由紀夫は、ノーベル文学賞候補にも何度か名前が挙がり、その上自身の写真集を出すなどのパフォーマンスでミーハーな人気もありました。まさしくスーパー・スターでしたから、日本中が大騒ぎになりました。

わたしは、その時点で三島作品はまだ『潮騒』1作しか読んでいなかったのですが、ものすごい衝撃を受け、新潮社の日本文学全集の三島由紀夫の巻を買って『仮面の告白』やら『金閣寺』やらを読んで、のめり込んでいきました。

年が明けて遺作となった『豊饒の海』四部作の最終刊『天人五衰』が発刊されました。三島由紀夫が自衛隊へ赴くその朝、自宅に呼んであった編集者に渡すようことづけて、最終回の原稿を残して家を出たという、その作品です。

四部作を全巻買い集め、春休みに一気に読みました。

『天人五衰』初刊本の装丁
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この四部作は各巻が二十年ごとの物語となっていて、60年に亘る時間が描かれています。『春の雪』『奔馬』『暁の寺』と読み進み、『天人五衰』に至ると、その60年の時間が瓦解する瞬間が描かれ、物語の中の記憶が、現実の記憶のようにひしひしと胸に迫って、二ヶ月ほどは読後の衝撃から抜け出られませんでした。

あれから40年経ちましたが、わたしにとって最も大切な小説です。

エマーソン・レイク&パーマーの『恐怖の頭脳改革』

今回はもうひとつの傑作アルバム、エマーソン・レイク&パーマーの『恐怖の頭脳改革』です。

『恐怖の頭脳改革』
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エマーソン・レイク&パーマーは、高度な演奏力を持つスーパー・グループとして結成当初から注目されていましたが、クラシック音楽のアレンジものをやったりすることが多く、作曲能力を含むトータルでのバンド力には疑問符のつくバンドでもありました。

それまでの最高作といわれる「タルカス」組曲も、現代音楽とロックを融合する独特のオリジナリティを提示したものの、断片的な小曲を組み合わせた感は否めず、組曲の長さに比例した構築感を感じさせるものではありませんでした。

元々キーボードのキース・エマーソンとベースのグレッグ・レイクの音楽性は、水と油ほども違います。いっしょにバンドをやっているのが不思議なくらいでした。

エマーソンは現代音楽フリークで、正直ロックっぽくもジャズっぽくもありません。一方レイクは、アコースティック・ギターでマイナーコードのバラードを歌い上げるスタイル。

ファーストアルバムの「ラッキー・マン」では木に竹を接いだような演奏だったし、「タルカス」組曲にしても、エマーソンとレイクが交互に顔を出すような楽曲でした。

そういった疑問を払拭して、最高度の融合を果たしたのが、この傑作『恐怖の頭脳改革』でした。このアルバムにおいても「エルサレム」や「トッカータ」はクラシック音楽からの編曲ものですが、「編曲だろうがなんだろうがそんなことはたいしたことじゃないだろ」と言わんばかりの、トータルの完成度を誇っています。

「聖地エルサレム」はイギリスの幻視的詩人ウィリアム・ブレイクの詩にサー・チャールズ・ヒューバート・パリーが曲をつけた、イギリスの愛国歌とも呼ばれる聖歌です。先日のウィリアム王子の結婚式でも、歌われていました。

そんな曲が高らかに歌い上げられ、エマーソン・レイク&パーマーの音楽そのものになっています。続く「トッカータ」はアルゼンチンの現代作曲家アルベルト・ジナステラのピアノ協奏曲からのアレンジものですが、まさにカール・パーマーのドラム・パーカッションのために用意された曲のように響きます。

「スティル…ユー・ターン・ミー・オン」はレイクお得意のバラードですが、エマーソンのキーボードがレイクのアコースティック・ギターに絶妙に寄り添います。

「用心棒ベニー」はラグ・タイム的要素が入った軽めの曲で、「悪の教典#9」を準備します。

そして最大の聴きものが、紛れもなくこの類い希なオリジナリティを提示した、30分を超えるオリジナル曲の「悪の教典#9」なのです。

ふっとオルガンのフレーズが入ってきたと思うまもなく、左手の低域の音部が対位法的に絡んだかと思うと、ドラムとベースが加わり、アクセルが踏み込まれます。そこにレイクのヴォーカルが切り込みます。

エマーソンの楽曲に乗っかると、あのバラード歌いのレイクがどうしてこのように歌えるのかと、驚嘆するヴォーカルです。

あとは30分の長丁場を、「悪の教典#9」はエンディングを目指してひたすら疾走していきます。まさしくメンバー3人が高度に融合し、新たな何かを生み出した傑作のなにものでもありません。

キング・クリムゾンの『太陽と戦慄』

少し前の回で紹介したプログレッシヴ・ロックの2枚のアルバムについて、書いてみたいと思います。

まずは、キング・クリムゾンの『太陽と戦慄』、キング・クリムゾンの5枚目のアルバムです。

『太陽と戦慄』
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このとき中心メンバーのロバート・フリップは、ファースト・アルバムから作詞とアルバム・コンセプトを担当してきたピート・シンフィールドと袂を分かっています。唯一のオリジナル・メンバーとなったロバート・フリップによる、新生キング・クリムゾンの最初のアルバムとなります。

演奏メンバーもフリップを除いて一新され、ある意味まったく新しいバンドになったとも言えそうです。しかし、確かなDNAを感じさせる驚異的な演奏で、バンドが間違いなくキング・クリムゾンであることを納得させられるアルバムとなっています。

メンバーは、パーカッションのジェイミー・ミューア、ドラムスのビル・ブラッフォード、バイオリンのデヴィッド・クロス、ベース・ボーカルのジョン・ウェットン、そしてギターのロバート・フリップです。

パーカッションとバイオリンが加わったところが特徴的な編成です。

詞は、ロバート・パーマー・ジェームズが書いています。

アルバムは、パーカッショニスト、ジェイミー・ミューアによるガムラン風の演奏が3分続くという超弩級のイントロで始まります。ギターがフェード・インして「太陽と戦慄」と邦題のつけられたLark's Tongue in Aspic(肉ゼリーの中のヒバリの舌)のパートIへと入っていきます。

ロバート・フリップはこのLark's Tongue in Aspicを「荒々しいものの中にある繊細なもの」と表現し、キング・クリムゾンの音楽の哲学的ベースとなるものと位置づけたのです。

「太陽と戦慄パートI」の13分に及ぶインストゥルメンタル楽曲が終わり、アコースティックなテイストの「土曜日の本」になって、初めてヴォーカルが出てきます。

ヴォーカル曲は「放浪者」「イージー・マネー」と3曲つづき、ジョン・ウェットンの獰猛なヴォーカルが輝きを放ちます。

再びインストゥルメンタルへ戻り、「トーキング・ドラム」、「太陽と戦慄パートII」に至り、徐々に盛り上がって頂点に達し、エンディングとなります。演奏は、各楽器が複雑に絡み合い、終始高い緊張感を保って、少しのゆるみもありません。

音楽のダイナミック・レンジが広く、超絶技巧の演奏、アルバムを通しての構成力と統一感、格調の高さ、いずれをとっても、ロック・アルバムの最高の到達点を示す1枚になっています。

インディーズチケットオンライン3周年!

この6月でインディーズチケットオンラインは3周年を迎えました。

当初インディーズチケットオンラインは、ライブのチケットの委託販売を目指してスタートしました。

当時はライブでの集客を増やすことを、一番大切なことと考えていました。そのために予約取り置きではなく、前売りで1枚でも多くチケットを買ってもらい、それを拡大していくことが必要と考え、そのための手助けができるのではないかと思ったのです。

しかし、既存の大手のチケット販売が、インディーズでもかなり利用しやすくなったこともあり、この分野での展開は思ったようには進んでいません。

集客が大切だと思うことに変わりはありませんが、集客を増やす方法についても、チケットの販売より先にやるべきことがありそうだと思い始めています。

3年間数多くライブハウスへ足を運んで、日本のインディーズ・バンドのレベルが予想以上に高いことを感じています。いや、この3年の間にもレベルが相当上がったのかもしれないと思っています。

いまインディーズチケットオンラインがテーマとしているのは、このブログの前の回に書いたことです。

あまりにも膨大な量の音楽がネット上にあふれ出して、優れた音楽も玉石混交の音楽の中に埋もれてしまい、たまたま聴いた人だけが知り、聴かなかった人には存在さえ知られないという事態をなんとかしたい。そして、本当にすごい音楽を聴かせてもらいたい、というのが現在のテーマです。

このブログも、そういう観点で始めたものです。

これからも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

コンピュータ技術の進歩と音楽の世界の問題点

振り返って、音楽の世界の話です。

『クラウド化する世界』には音楽市場のこともある程度書かれていますが、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

コンピュータ技術が進んで、多額の資金を必要とせず音源の製作が誰にでもできるようになりました。ディストリビューターが確立され、店頭での販売も可能になり、さらにはネットを通じたダウンロード販売も手軽にできるようになりました。

これらは大いに歓迎すべきことです。

マスメディアを対象としたメジャーの戦略の中では、音楽のレベルは高くともどうしても平凡になりがちで、特に日本の場合はアイドル路線重視や、ほどほどをよしとする風土があって、驚くようなものが出てきません。

これまで音楽をやっていくための唯一の成功の道は、メジャーに認められ、メジャーの商売の路線に沿って活動することでしたが、別の道が開けたことにより、インディーズ音楽がメジャーに一石を投じる可能性を掴めたといえると思います。

ところが問題はこの先です。あまりにも膨大な量の音楽がネット上にあふれ出し、優れた音楽も玉石混交の音楽の中に埋もれてしまい、たまたま聴いた人だけが聴知り、聴かなかった人には存在さえ知られない。そういう事態が深刻になっていると思います。

メジャー・アーティストの曲さえ、YouTubeを検索すれば大抵の曲が聴けてしまうなかで、どうやって自分たちの音楽を聴いてもらえるか、という壁に直面した訳です。

一瞬掴めそうになったチャンスは、怒濤のような洪水に流され、再び手の届かぬ彼方へ行ってしまうのではないかと心配する次第です。

THE BIG SWITCH

前回『クラウド化する世界』のことを書きましたが、さらに読み進めても、その後もクラウド・コンピューティングの話に戻ってきません。

小さい字で書いてある英語の原題を読んでみると、次のように書いてありました。

THE BIG SWITCH
Rewriting the World, from Edison to Google

(大転換
世界の書き替え、エジソンからグーグルへ)

どうも変だと思ったら、日本語のタイトルと英語のタイトルがずいぶん違うんですね。英語のほうだとだいぶ納得できます。

本の構成は「第1部」と「第2部」に分かれていて、「第1部」は確かにクラウド・コンピューティングに至る道が書かれていました。

しかし「第2部」は、『クラウド化する世界』というよりも、インターネットによって成立したワールドワイド・コンピューターに依存せざるを得ない世界の光と影を書こうとしたのではないかと思えてきました。

そこで改めて思ったのは、人類の未来予想図は決して明るいものではないということです。

SFの世界では既にかなり以前から、人類の未来図はどうも明るいものではなくなっていたような気がします。変化があったのは、映画の『ブレードランナー』(1982年)に代表されるサイバー・パンクの世界観あたりからでしょうか。

『ブレードランナー ファイナル・カット 製作25周年記念エディション』[Blu-ray]
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30年が経過して、経済の世界にもその波が押し寄せたということかもしれません。

『クラウド化する世界』

いまニコラス・G・カーの『クラウド化する世界』という本を読んでいます。まもなくグーグルのChrome OSを搭載したPCが発売されると聞いて、クラウド・コンピューティングへの移行を頭に入れておこうと思ったためです。

『クラウド化する世界』
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クラウド・コンピューティングの輝ける未来像を書いていると思って読み始めたんですが、どうやら途中から様子がおかしくなってきました。

コンピューティングの世界が拡大すると、YouTubeflickerなど投稿者という(働いているという意識のない)労働力を集約する企業が、利益を吸い上げる構造が出来上がるということなのです。

富が人握りの人たちに集中し、多くのひとは職さえも失うという未来です。

以前読んだクリス・アンダーソンの『フリー』と似たような展開になってきました。フリー(無料)への流れは押しとどめようもなく、その中で利益を得ることは非常に困難だという説です。

『フリー 〈無料〉からお金を生みだす新戦略』
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『クラウド化する世界』では、その影響を最も過酷な形で受けているのが、新聞業界だということで、米国の新聞業界の模様を描いています。

米国では、急速に紙媒体の新聞の購読者が減少しているようです。

紙媒体の新聞では、政治、経済、社説、スポーツ、エンターテインメント、広告と揃った形をひとつの商品として利用者に提供し、その中で新聞の価値を表明できたものが、ネット化すれば、検索エンジンによって拾われるひとつひとつの記事が評価の対象となります。

読者はその断片化した記事がどこの新聞社のものかさえも意識することがなくなり、その価値は記事に付随するネット広告の広告料の額によって評価されるようになると書いています。

例えば、新薬の開発に関する記事であれば、製薬会社の広告がクリックされることで広告料が稼げるかもしれないが、時間を掛けた政治スクープに高額の広告スポンサーがつくことは難しく、かつては新聞社の顔であったはずの記事が顧みられなくなる、というものです。

ベテランの記者を雇用していくことも難しくなり、結果、アマチュア中心の、平均すればレベルの高くない膨大な情報の海に人々は取り残されるという結末です。

本来ビジネス書というのは、読めば自分も何か出来そうな気がしてきて、元気が出るというものだったのですが、世界は、どうやらビジネス書にも明るい未来が描けない時代に突入しつつあるようです。

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筆者のプロフィール

  • 竹内 晃

  • 1953年巳年生まれ
    電子楽器メーカーコルグに30年間勤務。退職後インディーズチケットオンラインを立ち上げ、現在に至る。

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