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エマーソン・レイク&パーマーの『恐怖の頭脳改革』

今回はもうひとつの傑作アルバム、エマーソン・レイク&パーマーの『恐怖の頭脳改革』です。

『恐怖の頭脳改革』
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エマーソン・レイク&パーマーは、高度な演奏力を持つスーパー・グループとして結成当初から注目されていましたが、クラシック音楽のアレンジものをやったりすることが多く、作曲能力を含むトータルでのバンド力には疑問符のつくバンドでもありました。

それまでの最高作といわれる「タルカス」組曲も、現代音楽とロックを融合する独特のオリジナリティを提示したものの、断片的な小曲を組み合わせた感は否めず、組曲の長さに比例した構築感を感じさせるものではありませんでした。

元々キーボードのキース・エマーソンとベースのグレッグ・レイクの音楽性は、水と油ほども違います。いっしょにバンドをやっているのが不思議なくらいでした。

エマーソンは現代音楽フリークで、正直ロックっぽくもジャズっぽくもありません。一方レイクは、アコースティック・ギターでマイナーコードのバラードを歌い上げるスタイル。

ファーストアルバムの「ラッキー・マン」では木に竹を接いだような演奏だったし、「タルカス」組曲にしても、エマーソンとレイクが交互に顔を出すような楽曲でした。

そういった疑問を払拭して、最高度の融合を果たしたのが、この傑作『恐怖の頭脳改革』でした。このアルバムにおいても「エルサレム」や「トッカータ」はクラシック音楽からの編曲ものですが、「編曲だろうがなんだろうがそんなことはたいしたことじゃないだろ」と言わんばかりの、トータルの完成度を誇っています。

「聖地エルサレム」はイギリスの幻視的詩人ウィリアム・ブレイクの詩にサー・チャールズ・ヒューバート・パリーが曲をつけた、イギリスの愛国歌とも呼ばれる聖歌です。先日のウィリアム王子の結婚式でも、歌われていました。

そんな曲が高らかに歌い上げられ、エマーソン・レイク&パーマーの音楽そのものになっています。続く「トッカータ」はアルゼンチンの現代作曲家アルベルト・ジナステラのピアノ協奏曲からのアレンジものですが、まさにカール・パーマーのドラム・パーカッションのために用意された曲のように響きます。

「スティル…ユー・ターン・ミー・オン」はレイクお得意のバラードですが、エマーソンのキーボードがレイクのアコースティック・ギターに絶妙に寄り添います。

「用心棒ベニー」はラグ・タイム的要素が入った軽めの曲で、「悪の教典#9」を準備します。

そして最大の聴きものが、紛れもなくこの類い希なオリジナリティを提示した、30分を超えるオリジナル曲の「悪の教典#9」なのです。

ふっとオルガンのフレーズが入ってきたと思うまもなく、左手の低域の音部が対位法的に絡んだかと思うと、ドラムとベースが加わり、アクセルが踏み込まれます。そこにレイクのヴォーカルが切り込みます。

エマーソンの楽曲に乗っかると、あのバラード歌いのレイクがどうしてこのように歌えるのかと、驚嘆するヴォーカルです。

あとは30分の長丁場を、「悪の教典#9」はエンディングを目指してひたすら疾走していきます。まさしくメンバー3人が高度に融合し、新たな何かを生み出した傑作のなにものでもありません。

キング・クリムゾンの『太陽と戦慄』

少し前の回で紹介したプログレッシヴ・ロックの2枚のアルバムについて、書いてみたいと思います。

まずは、キング・クリムゾンの『太陽と戦慄』、キング・クリムゾンの5枚目のアルバムです。

『太陽と戦慄』
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このとき中心メンバーのロバート・フリップは、ファースト・アルバムから作詞とアルバム・コンセプトを担当してきたピート・シンフィールドと袂を分かっています。唯一のオリジナル・メンバーとなったロバート・フリップによる、新生キング・クリムゾンの最初のアルバムとなります。

演奏メンバーもフリップを除いて一新され、ある意味まったく新しいバンドになったとも言えそうです。しかし、確かなDNAを感じさせる驚異的な演奏で、バンドが間違いなくキング・クリムゾンであることを納得させられるアルバムとなっています。

メンバーは、パーカッションのジェイミー・ミューア、ドラムスのビル・ブラッフォード、バイオリンのデヴィッド・クロス、ベース・ボーカルのジョン・ウェットン、そしてギターのロバート・フリップです。

パーカッションとバイオリンが加わったところが特徴的な編成です。

詞は、ロバート・パーマー・ジェームズが書いています。

アルバムは、パーカッショニスト、ジェイミー・ミューアによるガムラン風の演奏が3分続くという超弩級のイントロで始まります。ギターがフェード・インして「太陽と戦慄」と邦題のつけられたLark's Tongue in Aspic(肉ゼリーの中のヒバリの舌)のパートIへと入っていきます。

ロバート・フリップはこのLark's Tongue in Aspicを「荒々しいものの中にある繊細なもの」と表現し、キング・クリムゾンの音楽の哲学的ベースとなるものと位置づけたのです。

「太陽と戦慄パートI」の13分に及ぶインストゥルメンタル楽曲が終わり、アコースティックなテイストの「土曜日の本」になって、初めてヴォーカルが出てきます。

ヴォーカル曲は「放浪者」「イージー・マネー」と3曲つづき、ジョン・ウェットンの獰猛なヴォーカルが輝きを放ちます。

再びインストゥルメンタルへ戻り、「トーキング・ドラム」、「太陽と戦慄パートII」に至り、徐々に盛り上がって頂点に達し、エンディングとなります。演奏は、各楽器が複雑に絡み合い、終始高い緊張感を保って、少しのゆるみもありません。

音楽のダイナミック・レンジが広く、超絶技巧の演奏、アルバムを通しての構成力と統一感、格調の高さ、いずれをとっても、ロック・アルバムの最高の到達点を示す1枚になっています。

インディーズチケットオンライン3周年!

この6月でインディーズチケットオンラインは3周年を迎えました。

当初インディーズチケットオンラインは、ライブのチケットの委託販売を目指してスタートしました。

当時はライブでの集客を増やすことを、一番大切なことと考えていました。そのために予約取り置きではなく、前売りで1枚でも多くチケットを買ってもらい、それを拡大していくことが必要と考え、そのための手助けができるのではないかと思ったのです。

しかし、既存の大手のチケット販売が、インディーズでもかなり利用しやすくなったこともあり、この分野での展開は思ったようには進んでいません。

集客が大切だと思うことに変わりはありませんが、集客を増やす方法についても、チケットの販売より先にやるべきことがありそうだと思い始めています。

3年間数多くライブハウスへ足を運んで、日本のインディーズ・バンドのレベルが予想以上に高いことを感じています。いや、この3年の間にもレベルが相当上がったのかもしれないと思っています。

いまインディーズチケットオンラインがテーマとしているのは、このブログの前の回に書いたことです。

あまりにも膨大な量の音楽がネット上にあふれ出して、優れた音楽も玉石混交の音楽の中に埋もれてしまい、たまたま聴いた人だけが知り、聴かなかった人には存在さえ知られないという事態をなんとかしたい。そして、本当にすごい音楽を聴かせてもらいたい、というのが現在のテーマです。

このブログも、そういう観点で始めたものです。

これからも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

コンピュータ技術の進歩と音楽の世界の問題点

振り返って、音楽の世界の話です。

『クラウド化する世界』には音楽市場のこともある程度書かれていますが、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

コンピュータ技術が進んで、多額の資金を必要とせず音源の製作が誰にでもできるようになりました。ディストリビューターが確立され、店頭での販売も可能になり、さらにはネットを通じたダウンロード販売も手軽にできるようになりました。

これらは大いに歓迎すべきことです。

マスメディアを対象としたメジャーの戦略の中では、音楽のレベルは高くともどうしても平凡になりがちで、特に日本の場合はアイドル路線重視や、ほどほどをよしとする風土があって、驚くようなものが出てきません。

これまで音楽をやっていくための唯一の成功の道は、メジャーに認められ、メジャーの商売の路線に沿って活動することでしたが、別の道が開けたことにより、インディーズ音楽がメジャーに一石を投じる可能性を掴めたといえると思います。

ところが問題はこの先です。あまりにも膨大な量の音楽がネット上にあふれ出し、優れた音楽も玉石混交の音楽の中に埋もれてしまい、たまたま聴いた人だけが聴知り、聴かなかった人には存在さえ知られない。そういう事態が深刻になっていると思います。

メジャー・アーティストの曲さえ、YouTubeを検索すれば大抵の曲が聴けてしまうなかで、どうやって自分たちの音楽を聴いてもらえるか、という壁に直面した訳です。

一瞬掴めそうになったチャンスは、怒濤のような洪水に流され、再び手の届かぬ彼方へ行ってしまうのではないかと心配する次第です。

THE BIG SWITCH

前回『クラウド化する世界』のことを書きましたが、さらに読み進めても、その後もクラウド・コンピューティングの話に戻ってきません。

小さい字で書いてある英語の原題を読んでみると、次のように書いてありました。

THE BIG SWITCH
Rewriting the World, from Edison to Google

(大転換
世界の書き替え、エジソンからグーグルへ)

どうも変だと思ったら、日本語のタイトルと英語のタイトルがずいぶん違うんですね。英語のほうだとだいぶ納得できます。

本の構成は「第1部」と「第2部」に分かれていて、「第1部」は確かにクラウド・コンピューティングに至る道が書かれていました。

しかし「第2部」は、『クラウド化する世界』というよりも、インターネットによって成立したワールドワイド・コンピューターに依存せざるを得ない世界の光と影を書こうとしたのではないかと思えてきました。

そこで改めて思ったのは、人類の未来予想図は決して明るいものではないということです。

SFの世界では既にかなり以前から、人類の未来図はどうも明るいものではなくなっていたような気がします。変化があったのは、映画の『ブレードランナー』(1982年)に代表されるサイバー・パンクの世界観あたりからでしょうか。

『ブレードランナー ファイナル・カット 製作25周年記念エディション』[Blu-ray]
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30年が経過して、経済の世界にもその波が押し寄せたということかもしれません。

『クラウド化する世界』

いまニコラス・G・カーの『クラウド化する世界』という本を読んでいます。まもなくグーグルのChrome OSを搭載したPCが発売されると聞いて、クラウド・コンピューティングへの移行を頭に入れておこうと思ったためです。

『クラウド化する世界』
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クラウド・コンピューティングの輝ける未来像を書いていると思って読み始めたんですが、どうやら途中から様子がおかしくなってきました。

コンピューティングの世界が拡大すると、YouTubeflickerなど投稿者という(働いているという意識のない)労働力を集約する企業が、利益を吸い上げる構造が出来上がるということなのです。

富が人握りの人たちに集中し、多くのひとは職さえも失うという未来です。

以前読んだクリス・アンダーソンの『フリー』と似たような展開になってきました。フリー(無料)への流れは押しとどめようもなく、その中で利益を得ることは非常に困難だという説です。

『フリー 〈無料〉からお金を生みだす新戦略』
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『クラウド化する世界』では、その影響を最も過酷な形で受けているのが、新聞業界だということで、米国の新聞業界の模様を描いています。

米国では、急速に紙媒体の新聞の購読者が減少しているようです。

紙媒体の新聞では、政治、経済、社説、スポーツ、エンターテインメント、広告と揃った形をひとつの商品として利用者に提供し、その中で新聞の価値を表明できたものが、ネット化すれば、検索エンジンによって拾われるひとつひとつの記事が評価の対象となります。

読者はその断片化した記事がどこの新聞社のものかさえも意識することがなくなり、その価値は記事に付随するネット広告の広告料の額によって評価されるようになると書いています。

例えば、新薬の開発に関する記事であれば、製薬会社の広告がクリックされることで広告料が稼げるかもしれないが、時間を掛けた政治スクープに高額の広告スポンサーがつくことは難しく、かつては新聞社の顔であったはずの記事が顧みられなくなる、というものです。

ベテランの記者を雇用していくことも難しくなり、結果、アマチュア中心の、平均すればレベルの高くない膨大な情報の海に人々は取り残されるという結末です。

本来ビジネス書というのは、読めば自分も何か出来そうな気がしてきて、元気が出るというものだったのですが、世界は、どうやらビジネス書にも明るい未来が描けない時代に突入しつつあるようです。

キング・クリムゾンとエマーソン・レイク&パーマー

1969年にビートルズの解散が決定的になったあと、わたしはイギリスのプログレッシヴ・ロックをよく聴くようになりました。

ピンク・フロイドの『アニマルズ』の話を書いたついでに、同様に驚天動地という点で、最高と思われるプログレッシヴ・ロックのアルバムを2枚紹介しておきたいと思います。キング・クリムゾンの『ラークス・タング・イン・アスピック』(邦題「太陽と戦慄」)と、エマーソン・レイク&パーマーの『ブレイン・サラッド・サージリー』(邦題「恐怖の頭脳改革」)です。

両アルバムとも、バンドとしての頂点を示した傑作です。

『太陽と戦慄』
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『恐怖の頭脳改革』
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キング・クリムゾンでは『クリムゾン・キングの宮殿』を、エマーソン・レイク&パーマーでは『タルカス』を最高作として挙げるひとも多いかと思います。確かに、これらのアルバムも両バンドの代表的アルバムであり、素晴らしい内容を持っています。しかし、アルバム全編を通してバンドとしての最高のテンションの持続を感じさせる点で、前記のアルバムのほうが上だと考えています。

いずれも1960年代のアルバムですが、どうも当時は大胆な邦題をつけたものです。それが洋楽をいまより身近なものにしていたかもしれません。

1980年代に入ると、海外も身近となって情報化も進み、英語も身近になったこともあってか、カタカナ書きが一般的になり、邦題をつけることも少なくなりました。

ピンク・フロイド

先日雑誌にピンク・フロイドの「マネー」についての短い解説を書く仕事があり、改めてピンク・フロイドについて考える機会にもなりました。

そこで今回は、ピンク・フロイドについて書いてみたいと思います。

ピンク・フロイドといえば、何といっても『ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン』(邦題「狂気」)の名前が挙がります。ビルボード・チャートの200位以内に15年以上連続ランクインした記録は大変なもので、オーディオのリファレンス音源としても重宝され、新しい音響システムが開発される度に試聴音源として繰り返し取り上げられます。

しかし、アルバムの評価としては微妙です。

当時から楽器を演奏するひとの間では、それほど評価は高くなく、どちらかといえば普段プログレッシヴ・ロックなど聴かない人たちの間で人気があったような気がします。また、そうでなければ、あれほどのセールスは達成できなかったでしょう。

実際それまでのピンク・フロイドの魅力といえば、インプロヴィゼイションの混沌の中から突如として巨大なものが立ち上がるといった印象のサウンドにありました。例えば『おせっかい』というアルバムに収録された「エコーズ」がそうですが、本領発揮となればピンク・フロイドの独壇場で、他を圧倒する迫力がありました。

正直その他の大半の曲はかったるさをぬぐえなかったりしたのですが、その点で、未完の大器といった風情もありました。

それが、きれいに整理されて姿を現したのが『狂気』だったと思います。かったるい曲は姿を消した一方、ピンク・フロイドの本来の魅力については物足りなさを感じるアルバムだったかもしれません。

ピンク・フロイド・ファンの間では『炎~あなたがここにいてほしい』が人気があるようですが、わたしとして、間違いなく最高傑作だと思うのは、『アニマルズ』です。このアルバムは「ドッグ」「ピッグ」「シープ」という大曲3曲を中心に構成され、いずれの曲も疾走感とすごみを感じさせる最高度の緊張感を保ったアルバムです。

『アニマルズ』
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ISOとF値とシャッター・スピード

もう少し、カメラのレンズの明るさに関して書いてみたいと思います。

撮影の際にいじれるカメラのパラメータは、ISO感度、F値(絞り)、シャッター・スピードの3つしかありません。この3つがどう関係するかということです。

「ISO感度」は、昔のフィルムの感度をシミュレーションしたもので、100、200、400と数字が2倍になるごとに感度が2倍になります。

「F値」は、数字が1.4倍になるごとに、明るさが半分になります。わたしのカメラのF1.8を基準にすると、2.5、3.5、4.9となることで明るさが1/2、1/4、1/8になります。

「シャッター・スピード」は、1/15秒、1/30秒、1/60秒と速くなれば光を採り込む時間が短くなるため、暗くなっていきます。

つまり、シャッター・スピードを固定にすると、

ISO400でF1.8 = ISO800でF2.5 = ISO1600でF3.5 = ISO3200でF4.9

これらがすべてイコールとなり、同じシャッター・スピードの時に同じ明るさで写真が撮れる設定ということになります。

一方F値(絞り)を固定にすると、

ISO400で1/15秒 = ISO800で1/30秒 = ISO1600で1/60秒 = ISO3200で1/120秒

シャッター・スピードを2倍にするには、1段階明るい感度が必要になるという訳です。

わたしのカメラはどうやらISO400が限界で、これ以上感度を上げるとノイズが多くなって使えません。このため、ISO感度は400までとして、シャッター・スピードをなるべく遅くし、1/30秒か、1/45秒で撮っています。シャッター・スピードが遅くなれば、アーティストが動くので被写体ブレが出ます。シャッター・スピードは、できれば最低でも1/60秒くらいにはしたいところです。

一眼レフでは撮像素子の大きさのおかげで、2段階くらいは高感度に強そうなので、ISO1600までなら安心して撮れそうです。

しかし、一眼レフのレンズ・キットによくある標準ズームのF3.5のレンズでは、感度をISO1600に上げても同じ程度の撮影しかできないことになってしまう訳です。

一眼レフで、F1.8やF2.5のレンズを手に入れれば、圧倒的な向上になるはずですが、単焦点レンズならともかくズーム・レンズだと、これがめったにないんですね。

巨大なカメラ

前回デジタル・カメラの撮像素子について書きましたが、撮像素子が大きくなれば画質に関しては有利になる反面、残念なことにカメラはそれに比例して大きくなっちゃうんですね。

スペックだけで選んでいくと、本当に巨大なカメラになってしまいます。一眼レフのあのずんぐりむっくりした感じも、わたしはいまひとつピンと来ませんでした。価格も相当なものになります。

そこで買い換えた2台目のカメラも、1/1.7の撮像素子を積んだコンパクト・デジタル・カメラになりました。SAMSUNGのTL500というカメラです。

SAMSUNG TL500
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 光学ズーム範囲:24mm~72mm(35mm換算)
 F値:1.8(広角端)~2.4(望遠端)

このカメラは韓国製で、日本では販売していないので、米国のamazonから購入しました。

F値というのがカメラのレンズの明るさを表しますが、TL500のF値はF1.8で、コンパクト・デジカメの中では最も明るいレンズを搭載しています。

これで、だいぶ撮れる範囲は広がりましたが、まだ暗いステージでは思うような写真が撮れないこともあります。

ライブハウスでフロアが混んでくると、大きなカメラを構えて動き回るなんて無理ですからね。なんとかカメラは大きくせずに、暗い場面でも余裕を持って撮れるカメラを手に入れたいと思う日々です。

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筆者のプロフィール

  • 竹内 晃

  • 1953年巳年生まれ
    電子楽器メーカーコルグに30年間勤務。退職後インディーズチケットオンラインを立ち上げ、現在に至る。

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